「背水の陣」の意味・故事成語の由来とは?使い方や例文・類語も
「背水の陣」という故事成語の意味や、由来となっている物語をご存知ですか?背水の陣とは、漢の名将である韓信(かんしん)が趙(ちょう)との戦いに挑む姿が描かれている故事です。この記事では、「背水の陣を敷く」という形で使われることの多い「背水の陣」の成り立ちの物語や使い方・例文・類語をご紹介します。
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目次
「背水の陣」の意味は?
「背水の陣」の意味①わざと川を背にして陣をとり味方に必死の覚悟をさせる
はじめに「背水の陣」の意味を見ていきましょう。「背水の陣」という言葉は、中国前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん)が書いた「史記(中国の歴史書)」が成り立ちとなっており、漢の名将と言われた「韓信(かんしん)」が趙(ちょう)と戦いをした時のことなどが記されています。
韓信は、わざと川を背にして陣をとることで、味方の軍に「退却することはもうできない!」という必死の覚悟をさせました。その作戦が「背水の陣」を意味し、由来となって現代に受け継がれています。「背水の陣」の「背水」とは水を背にすることを言います。
当時の戦の仕方は「山を背にして、川に顔を向けて陣を組むべき」と言われていました。何故なら後ろが山であれば、敵が襲ってきてもすぐに退去できますが、川を背にして陣を組んでしまうと退去するのが困難になるからです。それでも、韓信の作戦によって軍は勝利をおさめます。大勝利へと導いた物語については後述します。
「背水の陣」の意味②絶体絶命の状況で全力を尽くすこと
「背水の陣」の2つ目の意味は、現代の解釈についてです。「背水の陣」という言葉は「絶体絶命の状況で全力を尽くすこと」のたとえで用いられます。一歩も後ろに退くことができない覚悟で事にあたるということです。当時の韓信は、絶体絶命のピンチの状況から軍を勝利へ導いた訳ですから名将と言われる所以もわかりますね。
いつの時代にも絶体絶命の状況というものはあります。そんな時に、はるか遠い昔の中国で誕生し、語り継がれてきた故事成語の意味を知ることは、困った時の知恵として役立ち、良い人生を送るための手がかりを与えてくれます。
さらに、その言葉の由来となっている物語や当時の背景を知ることで、理解を深めることができます。受験の時に勉強するだけではなく社会人の常識としても知っておくと便利です。普段何気なく使っている言葉も、実は故事成語だったということも多いので、調べてみるのも面白いですよ。それでは早速、物語を見ていきましょう。
「背水の陣」故事成語の由来となった物語は?
「背水の陣」故事成語の由来・物語とは|出典「史記・淮陰侯列伝」による
「背水の陣」故事成語の由来・物語は、司馬遷が書いた史記、淮陰侯(わいいんこう)列伝に記されています。淮陰侯とは韓信のことです。「背水の陣」の話は、紀元前206年に中国の秦(しん)が滅亡した後、前漢初代皇帝の劉邦(りゅうほう)が紀元前202年に中国を統一した前の紀元前204年のことです。
劉邦の部下だった韓信は、紀元前204年に井陘(せいけい:現在の河北省石家荘市井陘県)で背水の陣を敷くことで勝利を収めることになります。
「背水の陣」故事成語の由来・物語とは|趙との戦いに挑むまでのあらすじ
背水の陣を敷くこととなる「趙との戦い」に挑むまでのあらすじをご紹介します。中国の秦末の武将「項羽(こうう)」を討つために、劉邦は彭城(ほうじょう)へと出陣します。項羽が遠征中だったこともあり城は陥落しましたが、知らせを受けた項羽は三万の精鋭を率いて戻ってきます。
そこで劉邦の軍に不意を突いて襲撃し大打撃を与え、城を奪還します。劉邦は命からがら逃げることとなりました。十数万の兵を失って敗勢となってしまった劉邦軍は、北伐を進める韓信の活躍に望みをかけます。そして、韓信がわずか三万の兵で趙の大軍を破る事になる井陘の戦いが始まるのです。
「背水の陣」故事成語の由来・物語とは|井陘(せいけい)の戦い(前半)
ここからは、背水の陣を敷く戦法をする「井陘(せいけい)の戦い」の物語です。国士無双(こくしむそう)と言われた韓信が敗勢の軍を立て直して進撃します。韓信は、二千の兵に漢の旗を持たせ、抜け道から井陘の城の近くに伏せるように言います。
全軍で押し寄せてくると思われる趙の城は、空城になるだろうと見込み、その隙に城になだれ込んで漢の旗を立てるようにと指示したのです。一方、韓信は、川を背にして陣を敷くよう兵に命じます。それを見ていた趙軍の将士は、名将と聞いていた韓信が川を背にして陣を組んだことにあざけ笑います。そして戦いが始まります。
圧倒的多数の趙軍に漢軍は後退していき陣に逃げ込みますが、そこからの漢軍の抵抗は凄まじいものでした。何故なら、逃げ道がないからです。その頃、別動隊二千の兵は、井陘の城になだれ込み、二千本の漢の赤旗をうち立てます。趙軍の兵はどんどん被害を増していき、一旦城へ引き返そうとしますが漢軍の旗を目にするのです。
「背水の陣」故事成語の由来・物語とは|井陘(せいけい)の戦い(後半)
漢軍に城が乗っ取られ、趙軍の中には逃げだす兵もいました。そしてこの時、韓信は再び出撃を命じ、混乱している趙軍と戦います。同じ時、別動隊の二千の兵も城から撃って出て趙軍を挟み撃ちにします。大混乱を引き起こした趙軍は討ち取られ、趙の王も捕らえられることになりました。
「背水の陣」は逃げ出すことのできない生死のかかった状況の中で、自軍に覚悟を決めさせました。そして、水を背にする陣を組んだことは「相手を油断させる」という心理的な戦略にもなったのです。
これが韓信の「背水の陣」の物語です。現代では絶体絶命の状況で全力を尽くす時、決死の覚悟で事にあたる時などにこの言葉が使われています。「史記・淮陰侯列伝」では【信乃使萬人先行、出背水陳。趙軍望見而大笑。】と記されています。「背水の陣」という故事成語は、物語と共に現代の私たちに受け継がれています。
「背水の陣」という戦法を使ったのは韓信だけではありません。実は項羽もそれ以前に似たような戦略を使い、兵を戦わせたという話があります。その戦略とは、河を渡った後で舟を焼き、引き返すことのできない状況をつくりました。さらに釜を壊して兵には最低限の食糧しか与えず、「戦わなければ死んでしまう」という過酷な状況に追い込んだのです。結果、死に物狂いで戦わせることに成功した。というものです。
「背水の陣」の使い方や例文は?
「背水の陣」の使い方・例文①背水の陣
それでは、「背水の陣」の使い方と例文をご紹介します。今まで何となく「背水の陣」という言葉を知っていたものの、物語の背景を知らなかった方は、物語を知ることによって「背水の陣」という故事成語に対する思いが変わったのではないでしょうか。
韓信の戦法だった「背水の陣」は、絶体絶命の状況で全力を尽くす時、決死の覚悟で事にあたる時に使われることがわかりました。「全力を尽くして事に当たる時」というのは多くありますよね。使い方と例文の1つ目は、「背水の陣」です。物事に挑む時などに用いられます。
- ・背水の陣の思いでこの試合に臨むんだ。負けるわけにはいかない!
- ・背水の陣で臨む覚悟がないなら、上京して一人で生活するなんて無理よ。
- ・次が駄目ならもう諦めると決めたのは、背水の陣で挑む決意を表明したからです。
【例文】背水の陣
「背水の陣」の使い方・例文②背水の陣を敷く
使い方と例文の2つ目は、「背水の陣を敷く」です。冒頭でも触れましたが、「背水の陣」は、「背水の陣を敷く」という形での使い方が多いです。それでは早速「背水の陣を敷く」の使い方と例文を見ていきましょう。物事に挑む姿や意気込みが感じられる例文です。
- ・一生のうちに必ず叶えたい願いがあるならば、背水の陣を敷いてでも取り組むことでしょう。
- ・彼の意気込みはものすごかった。きっと背水の陣を敷いて奮戦しているに違いない。
- ・私は背水の陣を敷いて戦う覚悟で、3年前に娘と嫁を残して上京しました。
【例文】背水の陣を敷く
「背水の陣」の類語は?
「背水の陣」の類語①船を沈め釜を破る
「背水の陣」の類語の1つ目は、「船を沈め釜を破る」です。決死の覚悟で戦うことを意味します。「船を沈め釜を破る」は、項羽が自軍の舟を沈めて釜を壊し、兵士に必死の覚悟を負わせて勝ったという故事からきています。(史記・項羽本紀)紀元前207年の「鉅鹿(きょろく)の戦い」にあたります。
「背水の陣」の類語②河を渡り舟を焼く
「背水の陣」の類語2つ目は、「河を渡り舟を焼く(かわをわたりふねをやく)」です。「舟を焼く」とも言います。これは、舟を焼いて退けないようにすることで、自分から逃げ道を断ち、決死の覚悟で物事にあたることです。
「背水の陣」の関連語3つ
「背水の陣」の関連語①敗軍の将は兵を語らず
「背水の陣」には関連語となっている故事成語があります。1つ目は、「敗軍の将は兵を語らず」です。戦いに敗れた将軍は、戦術・戦法などを語る資格はない。失敗をした者が弁解がましいことを言うべきではない。という意味です。注意したい点は「兵」です。ここでの兵は、「兵法」のことを言います。
出典は、「史記・淮陰侯列伝」です。前漢初代皇帝の劉邦を支えた韓信は、趙との戦いに勝利した時に、趙の軍略家であった広武君(こうぶくん)を生け捕りにするよう命令を出します。捕虜となって引き立てられた広武君の縄をほどき、師として仰ぐ位置に座らせます。
殺されると思っていた広武君でしたが、韓信は広武君に対し礼を尽くして尋ねます。「北の燕(えん)、東の斉(せい)を攻めるつもりです。どのように挑むべきか戦法を教えてください。」これに対し広武君は「敗軍の将は兵法について語るべきではない。亡国の捕虜の身である自分が口をはさむ資格はありません。」と答えます。
「背水の陣」の関連語②四面楚歌
「背水の陣」の関連語2つ目は、「四面楚歌(しめんそか)」です。「敵に囲まれて孤立し、助けがないこと。周囲の者が敵や反対者ばかりであること。」を言います。紀元前202年「垓下(がいか)の戦い」で、秦末期の楚(そ)の武将「項羽」は、漢の劉邦に敗れてこの世を去ることになります。
絶世の美人と言われ、項羽が愛した「虞美人(ぐびじん)」も自害します。垓下で包囲されたとき、夜更けに四面から楚の歌が聞こえてきます。これは、楚の兵に故郷の家族を思いださせるための漢の作戦でした。楚の歌を聞いた兵は涙し、絶望感や孤立感が深まっていきました。兵は武器を捨て陣を離れます。(史記・項羽本紀)
「背水の陣」の関連語③捲土重来
「背水の陣」の関連語3つ目は、「捲土重来(けんどちょうらい)」です。一度敗れた者が勢いを盛り返し、巻き返すことを言います。項羽が漢の大軍に敗れて自刃した地を訪れた唐の詩人・杜牧(とぼく)が詠んだ故事で、四面楚歌のあとの項羽について描かれています。(杜牧・題烏江享詩)
以下の記事では、「過ぎたるは猶及ばざるが如し(すぎたるはなおおよばざるがごとし)」ということわざの意味や類語・英語・誤用表現などをまとめています。こちらのことわざも「背水の陣」と同様に、中国の物語が語源・由来となっています。「ことわざの理解を深めたい」という方は参考にしてみてください。
故事成語「背水の陣」の意味・使い方・由来を知ろう!
今回は、故事成語「背水の陣」の意味や物語・使い方・例文・類語・関連語等をご紹介しました。背水の陣で漢の名将と言われた韓信が趙との戦いに挑む姿は素敵でしたね。もう一歩も引けない状況で敵に挑む多くの兵士の姿も目に浮かびました。ひとつの故事成語を掘り下げて見ていくのは面白いものですね。
使い方と例文を参考にして「背水の陣」という故事成語を早速使ってみましょう。時代や国を超えて受け継がれてきた故事成語の意味や使い方、由来を知ることは、もっと故事成語を身近に感じることに繋がります。よりよく生きていくための手がかりとなってくれるはずです。
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